大判例

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大阪高等裁判所 平成3年(行コ)9号 判決

控訴人

東海久子

右訴訟代理人弁護士

高橋典明

宇賀神直

木下準一

岩永惠子

井上直行

徳井義幸

長岡麻寿恵

青木佳史

堤浩一郎

被控訴人

地方公務員災害補償基金大阪府支部長

中川和雄

右訴訟代理人弁護士

今泉純一

主文

一  原判決を取り消す。

二  被控訴人が地方公務員災害補償法に基づき昭和五六年一二月二五日付けで控訴人に対してなした公務外認定処分を取り消す。

三  訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

事実及び理由

第一  当事者の求めた裁判

一  控訴人

主文と同旨

二  被控訴人

1  本件控訴を棄却する。

2  控訴費用は控訴人の負担とする。

第二  事案の概要

本件事案の概要は、次のとおり付加するほかは、原判決事実及び理由の「第二 事案の概要」欄の記載と同一であり、証拠関係は原審及び当審の各訴訟記録中の証拠目録記載のとおりであるから、いずれもこれを引用する。

一  控訴人の主張

1  (公務上の疾病の意義)

法二六条の「公務上の疾病」とは、本来、公務と合理的関連性がある疾病をいうと考えるべきであるが、仮に、公務上の疾病を公務と相当因果関係のある疾病、すなわち、公務が相対的に有力な原因となって発症した疾病であるとする立場に立っても、本件においては、控訴人の本件疾病(頸肩腕症候群、背腰痛症)が公務上の疾病であることを認めることができる。なお、相当因果関係の判断に、公務が通常の業務を基準にして過重であることという判断要素を持ち込むことは相当でなく、業務量と個体の体力のアンバランスから疾病が発症したと認められればそれで足りると解すべきである。また、立証責任について、公務上の認定請求者が公務と疾病との因果関係を相当程度立証すればこれを否定する反証がない限り、公務上の認定を行うのが相当である。

2  (頸肩腕認定基準と腰痛認定基準)

保育所保母は、地方公務員災害補償基金理事長が昭和四五年三月六日に発した「キーパンチャー等の上肢作業に基づく疾病の取扱いについて」(地基補第一二三号、昭和四八年改正・同第五四三号、昭和五〇年改正・同第一九一号、昭和五三年改正・同第五八七号)、同補償課長が昭和五〇年三月三一日に発した実施要領(以下、合わせて、「頸肩腕認定基準」という。)の対象職種として列挙されていないが、公務と疾病との相当因果関係を判断するに際して、列挙された特定業務と比べて過重な立証を強いてはならない。また、地方公務員災害補償基金理事長が昭和五二年二月一四日に発した「腰痛の公務上外の認定について」(地基補第六七号、昭和五二年改正・同第三六号、昭和五三年改正・同第五八七号)、同補償課長が昭和五二年二月一四日に発した実施要領(以下、合わせて、「腰痛認定基準」という。)は、頸肩腕認定基準ほどには作業態様、職種を限定しておらず、保育所保母も腰痛認定基準の対象となる職種であると解すべきである。保育労働は一見すると多種多様な作業の集合であるが、その業務内容の実質には、上肢の同一肢位の保持、同一動作の頻繁な反復という要因、腰部にとって不自然、非生理的で負担のかかる要因が含まれており、キーパンチャー等指定業務に準ずる程度の上肢負担、重度身障者施設保母に準ずる程度の腰部負担が存在するものである。

3  (相当因果関係の判断と疫学的手法)

公務と疾病との相当因果関係の解明に疫学的手法は有効であり、保育業務と頸肩腕障害ないし腰痛症との間に疫学的因果関係が認められる場合には、保育業務に従事した控訴人の疾病は、公務以外の原因により発症したという特段の反証がない限り、公務上の疾病と推定されるべきである。そして、保育労働について、日本産業衛生学会を中心として専門家による医学的調査が広範になされており、その調査、研究結果は、科学的資料として、保育労働と頸肩腕障害、腰痛症との一般的因果関係の判定資料とすることができる。また、控訴人を含む吹田市の保母について専門家による特別検診が実施され、その結果判明した控訴人勤務の職場における同僚の健康状態や頸、肩、腕、背中、腰への異常を訴える者の率の高さは、控訴人の本件疾病と控訴人の現に従事した保育労働との個別的因果関係を肯定すべき根拠となる。

二  被控訴人の主張

1  (公務上の疾病の意義)

疾病を公務上の災害と判断するには、当該公務と当該疾病の間に相当因果関係が存在することが必要であるところ、控訴人の保育業務と本件疾病との間の相当因果関係を肯定するためには、控訴人の保育業務が上肢や腰部に影響を与える業務であることを前提として、(一) 控訴人の業務が同種同等の他の職員に比較して明らかに精神的肉体的に負担を伴う過重又は過激なものであること、通常の業務に比し著しく不良な環境での公務であること等の特別な事情が認められること、(二) 他に本件疾病と同様の症状を呈する疾病との鑑別ができること、(三) 他に本件疾病の原因とされる精神的肉体的負担が見当たらないこと、(四) 労働による負荷と本件疾病の症状との相関性及び治療と症状との相関性が認められること等の要件を満たすことが必要である。

2  (頸肩腕認定基準と腰痛認定基準)

(一) 病像、原因、発症機序について定見のない頸眉腕症候群に関しても、異常を訴える者の中には補償の対象とすべきものが存在するので、整形外科の専門医だけでなく、日本産業衛生学会の専門医も加わった専門委員会が関与して、行政的に現時の医学的常識に即して、一定の職種、業務内容に対して、一定の業務過重性などの要件を付して、業務起因性を認定することとしたのが頸肩腕認定基準である。一般に狭義の頸肩腕症候群の予後は、症状が不変又は悪化が五〇パーセントを超え、あまりよくないものとされているが、職業起因性のものについては適切な療養を行えば三か月程度で治癒すべきものであり、器質的な疾患ではなく機能的な疾患であるから、職場の暴露から離れて適切な治療をすれば六か月で治癒するのが医学界の常識であるとされ、また、配置転換後数か月を経てもなお本障害を訴える者はもはや労働の過重によるというよりは病的素因を重視すべきもの、すなわち、その種の労働を経験しなくとも発症し、継続した可能性の方がはるかに大きいものとされている。

(二) また、亜急性若しくは慢性に発症する腰痛で明らかな腰痛性疾患の認められない腰痛症は、一般人も日常よく経験するものであるが、腰部に過度の負担がかかる公務に従事して、腰痛が発症した場合、右公務に起因して発症したものと行政的見地から認めるのが妥当な事例もあり、行政的に現時の医学的常識に即して、腰部に過度の負担のかかる作業のうち、一定の職種、業務内容を特定して、公務起因性を認定するものとしたのが腰痛認定基準である。

(三) 右各認定基準は、行政通達であるから裁判所の判断を当然に拘束するものではないが、現時の医学常識に即したものとして公務起因性の有無の判断に参酌すべきである。そして、保育所保母の保育業務は、「キーパンチャー等その他上肢の動的労作又は静的筋労作を主とする業務」に該当しないし、また、「腰部に過度の負担のかかる業務」に該当しないから、右各認定基準によっては公務との相当因果関係を認めることができない。

(四) もっとも、右各認定基準の特定の業務に該当しない公務からの本件疾病の発症が全面的に否定されるものではない。しかし、その作業は本件疾病の発症原因として医学経験則上一般的に肯定された業務上の危険を伴うものとはされておらず、その作業への従事と発症との間に公務起因性を一般的に推定し得るに至っていないから、特定の業務以外の場合に公務起因性を肯定するためには、それぞれの場合につき、医学経験則上納得するに足る公務の特異性、労働負荷の有害性が、当該公務の実態に即して個別的に認定されなければならない。この場合、他に発症要因と考えられる事由を見い出し得ないことから業務量の過重性を遡って推認することはできない。

3  (控訴人が吹田市に採用される前の職歴と健康)

控訴人は、高校を卒業後銀行及び菓子店で事務職に就いたのち、大阪市城東区にある精神薄弱児収容施設「すみれ愛育館」に昭和四〇年四月に保母見習いとして就職し、昭和四一年九月に保母資格を取得したのちは、昭和四二年四月まで同施設に保母として勤務した。障害を持つ子供の食事、排泄、衣服の着脱、遊戯、散歩等の介助、指導が仕事の内容であり、勤務条件は、吹田市の公立保育園保母の場合に比べて、勤務時間が長く、宿直を含む勤務形態の点でも厳しく、控訴人は年次休暇及び特別休暇を全く取っておらず、人員配置の点でも過重であったが、二年間の勤務期間中に上肢や腰部に全く症状が出現しなかったのに、吹田市採用後はわずか一年二、三か月で症状が発現しているのである。これは本件公務が本件疾病の原因になったとはいえないとする十分な理由になり得る。すみれ愛育館に勤務の当時は独身であったのに対し、吹田市に採用後は離婚して子供二人を育てていたことも勘案すると、本件疾病は吹田市における保母業務によるよりも、控訴人の身体の加齢現象やその他の素因、育児、家事による負担が発症の大きな要因となったと推認する方が自然である。

第三  争点に対する判断

一  法二六条にいう「公務上の疾病」の意義とその立証

1 法二六条にいう「職員が公務上疾病にかかった場合」とは、疾病が公務を原因として発生したことをいい、この場合に該当するというためには、公務と疾病との間に相当因果関係があることが必要であり、公務上の疾病の認定を請求する者は、公務と疾病との間の相当因果関係の存在を立証する責任を負うものと解すべきである。

2  ところで、証拠(甲第七四、第九八号証、乙第一ないし第五、第一七ないし第一九、第二一、第二八号証)によれば、頸肩腕症候群及び腰痛症の発症の原因ないし仕組みはいまだ医学的に十分に解明されてはいないこと、ことに頸肩腕症候群については、産業衛生学会は、業務による頸肩腕症候群をそれ以外のものと区別して頸肩腕障害と称し、独自の病像分類による診断基準を提言するが、整形外科学会は、作業歴の調査等医学的に判定が困難な要素が診断に含まれ、病像分類は実際の症状の推移に一致しないなどと、産業衛生学会の見解を批判していること、しかしながら、現時点までに解明された範囲を集約して、頸肩腕症候群及び腰痛症の公務上外の認定について行政上の認定基準が作成されていることが認められる。すなわち、地方公務員災害補償基金理事長が昭和四八年一一月二六日に発した「公務上の災害の認定基準について」(地基補第五三九号、昭和五三年改正・同第五八七号、昭和五六年改正・同第九八号、昭和五七年改正・同第三三号、昭和六一年改正・同第八号)は、「せん孔、タイプ、電話交換、電信等の業務その他上肢に過度の負担のかかる業務に従事したため生じた頸肩腕症候群」「重量物を取り扱う業務、腰部に過度の負担を与える不自然な作業姿勢により行う業務その他腰部に過度の負担のかかる業務に従事したため生じた腰痛」を職業病とし、これらの業務に従事した者が頸肩腕症候群又は腰痛症にかかった場合、その業務に伴う有害作業の程度が当該疾病を発症させる原因となるに足りるもので、当該疾病に特有な症状を呈したときは、特に反証のない限り、公務上のものとされることを定めている。そして、頸肩腕認定基準は、頸肩腕症候群を、種々の機序により後頭部、頸部、肩甲帯、上腕、前腕、手又は指に、こり、しびれ、痛みなどの不快感を覚え、他覚的には当該部位の諸筋に病的な硬結若しくは緊張又は圧痛を認め、ときには神経、血管系を介して頭部、頸部、背部、上肢における異常感、脱力、血行不全などの症状をも伴うことのある症状群に対して与えられた名称であるとし、頸肩腕症候群を公務上の疾病と認定するための要件として、従事した業務が上肢の動的労作(例えば、打鍵などの繰り返し作業)又は上肢の静的労作(例えば、上肢の前・側方挙上位など一定の姿勢を継続して取る作業)を主とする業務であることを定め、また、腰痛認定基準は、災害性の原因によらない腰痛を発症させる腰部に過度の負担のかかる業務の例として、重量物(おおむね二〇キログラム以上のものをいう。)又は軽重不同の物を繰り返し中腰で取り扱う業務、腰部にとって極めて不自然又は極めて非生理的な姿勢で毎日数時間程度行う業務、腰部の伸展を行うことのできない同一作業姿勢を長時間にわたり持続して行う業務、腰部に粗大な振動を受ける作業を継続して行う業務を挙げている。

ところで、後記認定事実によれば、控訴人の従事していた保育所保母の業務は、原判決添付別紙「保育業務の内容と作業姿勢」及び別紙1の(1)、(2)、当判決添付別表6に記載のとおり、食事、排泄、午睡の介助、身の回りの世話、遊びの指導、園内外の清掃その他の多種多様な作業を含んでおり、他方、重量物の持ち運び等の腰に過度の負担をかける作業はなく、身体の各部位を使う混合的な業務で、特定の部位に負担を持続的に集中させる強制的な動作を伴わないから、頸肩腕認定基準や腰痛認定基準が定める業務には該当せず、保母の業務と頸肩腕症候群及び腰痛症との間には、行政上の認定基準の適用が可能な定型的な因果関係は認められないというべきである。

3  また、控訴人は、保育業務と頸肩腕障害ないし腰痛症との間に疫学的因果関係が認められるから、控訴人の本件疾病は、公務以外の原因により発症したという特段の反証がない限り、公務上の疾病と推定されるべきである旨主張し、証拠(甲第三七、第七二、第七三、第七七、第九一、第九八、第一四二号証)によれば、保育所保母の業務や健康状態に関する相当数の実態調査に関する報告書等が存在しており、保母の疲労が取り上げられ、保母における頸肩腕症候群及び腰痛症の発症例が公表されていることが認められるが、前記のとおり、頸肩腕症候群及び腰痛症の発症原因は多様であり、頸肩腕症候群の定義や性格について医学的見解が定まっていない現状にあることに照らすと、疫学的因果関係を推認する要件を満たすためには右調査結果等だけでは資料が不十分であるといわざるを得ないから、控訴人の右主張は採用し難い。

4  そこで、以下、作業態様、作業従事期間、業務量、肉体的条件等を総合的に検討して、控訴人の従事した保育所保母の業務と本件疾病との間の相当因果関係の有無を判断することとする。

二  控訴人の経歴及び吹田市に保母として勤務する以前の健康状態(甲第三、第一二号証、原審及び当審控訴人)

控訴人は、昭和三四年三月高校を卒業し、同年四月から昭和三八年三月まで銀行に、同年一一月から昭和三九年一一月まで菓子店に勤務して事務職に就き、昭和四〇年四月精神薄弱児収容施設「すみれ愛育館」に保母見習いとして就職し、昭和四一年九月に保母資格を取得したのちは、昭和四二年四月に退職するまで同施設において保母として勤務した。同月結婚し、昭和四三年五月長女を、昭和四四年一一月二女を出産し、昭和四五年四月から昭和四六年一〇月まで紙業会社で事務を担当したが、この間同年八月に夫と別居し、昭和四七年四月離婚して、子供二人を引き取った。同月及び同年五月は南千里保育園で用務員のアルバイトをし、同年六月から同年八月まで北千里保育園で保母のアルバイトをしたが、同月一六日吹田市に保母として採用されて吹田市立千里山保育園の開園準備に当たり、同年九月一六日から新設の同園に保母として配属され、昭和五三年四月一日から吹田市立北千里保育園勤務となった。控訴人は、従前は極めて健康であって、高校卒業後、吹田市に正保母として採用されるまでの間、病気らしい病気をしたことがなかった。とりわけ精神薄弱児収容施設に勤務した二年間は、障害を持つ子供の食事、排泄、衣服の着脱、遊戯、散歩等の介助、指導等が仕事の内容であり、朝六時半から夕方六時半まで(一時から三時まで休憩)の早出勤務、午前一一時半から午後八時半までの遅出勤務、夜八時前ころから翌朝八時くらいまでの宿直勤務の三交代制をこなし、年次休暇及び特別休暇を全く取らず、三歳から一三歳くらいまでの子供を、障害の程度の重い場合は約一〇人を保母三人で、軽い場合は七、八人を保母一人で受け持っていたもので、吹田市立の保育所の保母に比べてゆとりがあるとはいえない人員配置の下で勤務していたが、控訴人には、上肢、腰部の異常その他の健康障害は全く見られなかった。

三  吹田市に保母として勤務するようになったのちの控訴人の健康状態(甲第三、第四、第一〇、第一六、第四三、第六〇号証、第一〇八号証の二、三、第一三三、第一三四号証、乙第八、第一〇号証、原審証人三宅成恒、当審証人吉田正和、原審及び当審控訴人)

1  控訴人は、昭和四七年九月から昭和四八年三月三一日までは健康であった。

2  昭和四八年度に入り、四、五月ころから腰のだるさを感じるようになったが、当時はまだ一晩寝れば翌朝は回復していた。一一月ころ左手薬指に水がかかるとひどく痛むことがあったが一週間くらいで治まった。そのころから肩のこりや痛みをしばしば感じるようになり、マッサージ治療院に通った。同年一二月、肩、腰の痛みとだるさを訴えて千葉医院(内科)に三回通院したところ、多発性神経炎と診断され、鎮痛剤とビタミン剤を処方された。その後も時々鍼やマッサージの治療院に通っていた。昭和四九年一月から三月にかけて、頸が寝違えたように動かなくなるようなことが何度かあった。

3  昭和四九年度は、同年四月一九日、男児の排泄介助の際に腰に激痛を覚えて、吉田整形外科で受診し、同年七月一七日まで一三回通院した。頸肩腕障害と診断され、頸椎間欠機械牽引、温熱療法、湿布、鎮痛消炎剤とビタミン剤の注射、筋弛緩剤、ビタミン剤、鎮痛剤等の内服投与、体操の指導等の治療に対する反応は比較的良好であり、治療を続けていると諸症状は相当軽減するが、通院治療の間隔が遠のくと症状が再燃していた。夜間診療が行われなくなり、勤務終了後の通院に不便を感じて、症状が軽快する前に、同医院への通院を止めた。同年一一月後半に二回津田外科・内科(以下「津田外科」という。)で受診したが、変形性脊椎証、低血圧症と診断され、ギブスベッドを制作する処置がなされ、約一年半これを使用した。そして、昭和五〇年二月実施の特別検診(吹田市が保母の職業病対策として昭和五〇年から始めた健康診断)において、頸肩腕障害に罹患しており管理区分CIとの判定を受けた。この判定は、原判決添付別表2の(1)の注の区分(特別検診の結果は同区分の分類による。)に従ったもので、事後措置として作業の軽減と治療の継続が必要であるとされている。同年三月、一時的に声が出なくなって耳鼻科の治療を受け、約一週間ほどで回復した。同月津田外科で受診し、座骨神経痛と診断され、牽引の処置を受けた。

4  昭和五〇年度は、肩こり、腰痛がひどくなり、頸を反らせると背中が痛み、頭を下げたり、水道をひねったりした時に頭痛がすることがあった。同月一八日、千葉医院で受診し、多発性神経炎と診断された。同年五月から一〇月にかけて何回か津田外科に通院し、座骨神経痛、変形性脊椎症などの診断名で治療を受けたが、特に同年七月の受診の際には、保育のできる身体の状態ではないと言われ、休職を勧められた。

5  昭和五一年度は、四月実施の特別検診において、頸肩腕障害、腰痛、脊椎過敏症と診断されたが、夏以降症状が軽快し秋の運動会でトラック二〇〇〇メートルを完走できるまでになった。しかしながら、同年七月二〇日に津田外科を受診し、左肩胛部神経痛の診断で治療を受けているし、同年一〇月六日から昭和五二年二月七日までの間、メニエル氏病との診断(時にはこれに急性気管支炎が加わる。)による治療を何度も受けている。

6  昭和五二年度は、五月ころ再び腰痛、頸、肩のこりがひどくなり、同月実施の特別検診で背部痛、頸部痛により、管理区分B2と判定された。慢性疲労の状態で要注意であり、作業軽減を要するとの判定で、できれば治療が望ましいというものである。同年七月には、腰に激痛が走ることもあった。冬に入るころからは、手足が冷え切った感じになり、時にはしびれることもあった。まぶたの上のけいれんのため仕事がしにくいので、セロテープでまぶたを押さえて仕事をしたこともあった。ことに昭和五三年二、三月には、症状が進み、疲れがひどく、入浴しても腕、腰の回りは湯を冷たく感じる、電気毛布で寝ても冷たく感じられる、起床時がつらく身体が自由にならない、頸、肩のこりがひどく身体という感覚が鈍くなるという状況で、仕事帰りにマッサージの治療に通っても効果が上がらなかった。

7  昭和五三年度は、四月当初から前年度後半に悪化した症状がそのまま続き、むしろひどくなっていた。注意を集中して人の話を聞くことができないことがあり、歩行中、段差につまづきやすく、腰に激痛が走ることがあり、同月末ころから鍼治療を受けていた。遠足の翌日の五月一六日夜、整骨院で治療を受け、同月一七、一八日を欠勤した。そして、同月一九日、上京病院で受診して、頸肩腕症候群、背腰痛症により、六か月間の休業加療を要すると診断された。はじめの半年くらいは症状が強く、京都までの通院が困難で、近所の整骨院で鍼、マッサージ治療を受けたのち、身体の状態が通院可能なまでに回復するのを待って、上京病院の主治医による治療を受けるようになり、運動療法が開始され、頸椎カラー装着、腰椎コルセットの形成などの処置がされ、昭和六一年ころまで鍼、マッサージ治療が続けられた。腰痛は昭和六一年ころに消失して、現在では残る左肩のしこりが治れば通常勤務が可能なほどに回復してきている。

8  控訴人は、昭和五三年五月一七日から同年八月一六日まで病気欠勤し、翌一七日から昭和五六年八月一日まで休職した。そして、同年二月ころから同年八月一日まで、四〇回くらい、当初一〇分から始めて次第に時間を延ばして肩ならしの登園をしたのち、同月二日から午前に三時間のリハビリ勤務が始まり、昭和五八年二月二日から四時間に延長され、同年一二月一日から午後の勤務を試み、昭和五九年二月から五時間、昭和六〇年六月から六時間、その後七時間、平成三年三月から七時間一五分のリハビリ勤務を行っている。

四  控訴人の業務の負担を重くし又は軽くした事由(甲第三、第五、第七、第八、第一〇、第二四、第四三、第五一、第五九、第六七、第六八、第八一、第八二号証、第一〇八号証の一ないし三、第一〇九、第一一二、第一二三、第一三三、第一三四、第一四三号証、乙第一三、第一四号証、原審証人内藤弘子、同金福子、当審証人和田博子、同田尻敦子、原審及び当審控訴人)

1  控訴人は、昭和四七年九月一六日から昭和四八年三月三一日まで、新設の千里山保育園において一歳児九名を保母三名で担当した。ところが、保母の一人が職場や子供たちに溶け込めず、昭和四七年一〇月二七日から同年一二月一八日までの間、担任からはずれて休暇代替要員となり、代わりに看護婦が担任となったが、常時クラスの仕事を行うことはできず、実質的には保母二人で保育に当たっていた。控訴人には育児経験があったのに対し、もう一人の保母にはその経験がなく、控訴人が保育の中心になった。

2  昭和四八年度は、一歳児九名を保母三名で担当した。しかし、保母の一人が妊娠のために、四月二八日から九月一〇日、同月一二日から同月二五日、一〇月九日から一一月三〇日の間休暇を取り、一二月一日から翌年一月二一日まで軽作業に従事した。この間、アルバイト保母の配置があったが、五月一日から七月三一日までのアルバイトはその間一四日の休みを取り、八月一日から同月五日、九月一二日から同月二五日、一〇月九日から一一月六日の間(休暇中)、一二月一日から同月四日、昭和四九年一月七日から同月二一日の間(軽作業中)は、アルバイト保母が配置されなかった。しかも、一一月七日以降の二度のアルバイト保母は同一人であるが妊娠していた。加えて、同月末日までの産休を終えた右保母が次の子を身ごもっていることが間もなく分かった。そして、他のクラスの保母にも病気などのために長期にわたって欠勤している者がおり、フリー保母(応援要員で当時園全体で一名の配置があり、昭和四九年一〇月から二名に増員された。)の応援を求めることはできなかった。このようにして、この年度は、年間を通して、控訴人ともう一人の担任の同僚保母の二人が中心になって保育に当たっていたものであるが、右同僚保母は年度当初に七か月の浅い経験しかなく、しかも担当の園児と馴染みがないためオムツの交換も逃げたりするので、前年度隣の部屋を受持ち馴染みのある控訴人が替わってするなどして控訴人の負担はより重いものにならざるを得なかった。なお、欠勤者がいる場合に出勤した正保母が一、アルバイト保母がその三分の二の各割合で業務を担当するものと想定して計算した業務負担の増加率は当判決添付別表8の(1)のとおりであるが、同じ一歳児九名を保母三人で担当した昭和五一年度の当判決添付別表8の(2)の業務負担量と比較して、昭和四八年度(ことに同年四月から一二月まで)の控訴人の業務負担量は極めて大きかった。

3  昭和四九年度は、当初一二名の二歳児を保母二名で担当し、六月一日から一三名、七月から一四名を保母三名で担当したが、控訴人が頸肩腕障害であるほか、同僚の一人は前年から引き続き、他の一人は一一月から腰痛で、三名とも健康状態が不良であった。かくして控訴人の業務の軽減はなかった。

4  昭和五〇年度は、三歳児一七名を保母三名で担当した。健康な一名はフリー保母であり、五月に婚約者を交通事故で失い、仕事に意欲を欠いた。控訴人ほか一名はいずれも特別検診で要治療の判定を受けていたうえ、控訴人は調理員の病欠が一〇三日間続いた調理室の洗い物を手伝っていた。この年度も控訴人の業務の軽減は実現しなかった。

5  昭和五一年度は、一歳児九名を保母三名で担当した。控訴人以外の二名は健康であり、体調を崩していた控訴人をかばい、クラスにも特別な問題はなかった。この年度は実質的に控訴人に対し作業軽減の措置が執られたのと同様の結果となった。

6  昭和五二年度は、〇歳児九名を保母四名で担当したが、フリー要員一名分が含まれており、四名が交代でフリー保母を務めた。控訴人が〇歳児を担当するのは初めてであり、園児の一人がよちよち歩きをするほかは、伝い歩きの子、這うようになった子、寝たままの子がいて、前年に比べるとかがんだり抱いたりの動作が急に増え、神経を使うことが多くなった。また、散歩等の園児の外出の際に、出入口の階段でいったん子供を下ろし又は子供を乗せたまま乳母車二台を持ち上げて運び、園の前の坂道を子供が四、五人乗った乳母車を押して登る作業が日課として加わった。そして、年が改まると控訴人の同僚保母の欠勤が続いた。まず、昭和五三年一月一八日から同月二六日まで保母の父の死亡による忌引の休暇があった。また、保母の一人が妊娠のため昭和五三年二月二二日から同年三月八日まで休暇を取得し、同月一五日から同月三一日まで病欠した。他の一名は退職を予定し、二月と三月に合わせて14.5日の年休と四日の生理休暇を取得し、二月の第二週(六日から一〇日)、三月の第三週後半から月末(二四日から三一日)をほぼ連続して休んだ。そのため、正保母二人の保育日が三月中に一一日間あり、そのうち六日間は学生アルバイトの手伝いが得られたが、一月から三月の間でアルバイトが入ったのはこの六日間だけであった。加えて、控訴人は、同年三月中旬に北千里保育園への転勤の内示を受けて転勤の準備にも追われながら、年度最終日の同月末日まで千里山保育園に出勤した。三月は、生理休暇二日を取ったほかは、年次休暇を取る余裕がなく、指導計画の作成等の事務的な仕事を家に持ち帰ることも多く、一日の勤務を終わった後に転勤先の保育園の職員会議に出席する(二回)など、無理を重ねていた。なお、昭和四八年度と同様に計算した昭和五二年度(昭和五三年二、三月)の業務負担の増加率は、当判決添付別表8の(3)、(4)のとおりであるが、控訴人は、二月の土曜日を除く保育日数二〇日のうちの七日間同僚一名を、四日間同僚二名を欠き、三月の土曜日を除く保育日数二一日のうちの一一日間同僚一名を、一〇日間同僚二名(ただし、六日間はアルバイト保母一名の補充があった。)を欠いた状態で保育に当たっていたもので、この間の業務負担の増加は極めて大きかった。

7  昭和五三年度は、転勤の準備期間が一日もないまま四月一日から北千里保育園の勤務に就いた。同園においては、四歳児三〇名を保母二名で担当した。千里山保育園からは控訴人の健康が不良であることの引き継ぎがなく、健康状態に対する配慮は何もなかった。ところで、四歳児クラスの園児に自閉症で多動の子供一人が含まれていたところ、その障害の程度はかなり重く、吹田市の現在の制度であれば、あらかじめ正保母が一名多く配置されるケースであった。付き切りで同児を介助せざるを得ず、控訴人が主にその世話をし、同僚が一人でクラス全体を見るという役割分担を決めたものの、保母二人だけで保育を続けることに困難が感じられ、同月八日の職員会議でその旨を訴え同月二〇日以降アルバイト保母の配置を得たが、控訴人はその後も右園児の介助の指導をした。右園児は言葉による指導を聞き分けることができず、一つところでじっとしていることが難しく絶えず動き回ろうとするなど、同児に付き切りの世話は苦労が大きかった。そうするうち、同年五月一二日、畑作りが行われ、同年五月一五日、クラス担当の保母二名とアルバイト保母一名の引率で、往復一〇キロメートル余り、徒歩で三時間の行程で遠足が行われた。これらの行事は控訴人を疲れさせたが、とりわけ遠足は、常時右障害児を手元に置いて、児童全体の動きにも目を配ることを求められたもので、体調の悪かった控訴人にとって極めて過酷なものであって、この遠足で控訴人は完全に疲れ果ててしまった。なお、障害児のための正保母一名が欠員しているものとみなして、昭和四八年度と同様に計算した昭和五三年度(四、五月)の業務負担の増加率は、当判決添付別表8の(5)、(6)のとおりであるが、特にアルバイト保母が加わるまでの控訴人の業務負担量は重かった。

五  勤務時間、勤務体制、休暇取得日数、時間外勤務(甲第三、第五、第一〇、第一一、第二六ないし第三三号証、乙第一三、第一四号証、原審及び当審控訴人)

1  吹田市の保母は、一般職員と同様に四五分間の休憩時間をはさんで午前九時から午後五時(土曜日は午後〇時)までの勤務時間で、一週間の合計は三九時間一五分とされているが、所定の時間に休憩を取ることは事実上困難であった。また、控訴人が勤務した千里山保育園と北千里保育園は、午前八時から午後六時までの長時間保育を実施し、原判決添付別表3記載の正規職員の交代勤務制(他に土曜日午後の当番勤務があった。)を採用し、昭和四八年六月以降は午前八時から一〇時までと午後四時から六時までの時間帯にパート保母を配置していた。控訴人の当番勤務回数は、昭和五二年度は一二一回(月八ないし一二回)、昭和五三年四月が七回、五月は一六日までで四回であり、同僚保母と同程度であった。

2  控訴人が吹田市に保母として採用された昭和四七年八月から長期欠勤が始まる前日の昭和五三年五月一六日までの間、控訴人の休暇取得日数及び時間外勤務時間は、原判決添付別表4記載のとおりである。これは、同僚保母と同程度であった。

3  このように、当番及び時間外勤務の免除など控訴人の作業を軽減する措置は一切取られていなかった。

六  保母の配置人員と厚生省基準、吹田市基準(甲第一〇、第一一、第二四、第三七、第八〇、第八五、第八九、第九一、第一三五ないし第一三八、第一四三号証、乙第一三、第一四ないし第一六、第二三、第二四号証、原審検証の結果、原審証人内藤弘子、同野澤正子、原審及び当審控訴人)

1  保育所の保母の定数は、厚生省の定める児童福祉施設最低基準(昭和二三年厚生省令第六三号)の改正により、昭和四二年度から〇歳ないし二歳の幼児六人につき一人以上、三歳以上の幼児三〇人につき一人以上と定められたが、三歳児につき昭和四三年から二五人に一人、昭和四四年から二〇人に一人と改められた。これに対し、吹田市は、二歳児が厚生省基準と同一であるほかは、昭和四七年から〇、一歳は幼児三人につき一人、三歳以上は幼児一二人に一人とし、フリー保母一人を加えると定め、昭和四九年度から四、五歳児は三〇人に二人とし、フリー保母は幼児団と乳児団に各一名と改め、更に昭和五四年から一歳児は四人に一人(一二人に三人)と改めた。なお、右厚生省の基準は、保育室の面積等についても定めていた。

2  保育所保母の定数については、中央児童審議会の昭和四三年一二月二〇日付けの厚生大臣に対する意見具申に見るように、保母の職務内容の実態及び保母と乳児(〇、一歳児)との間における遊び等を通しての必要な接触関係等種々検討を行った結果では、保母一人の担当乳児数は三人までとする必要があるとの見解が存在する。

3  控訴人が千里山保育園において担当したクラス、その乳幼児数及び保母数、保育室や乳児室の面積等は、原判決添付別表5の(1)記載のとおりである。また、同保育園全体の児童数及び保母の配置状況は、同(2)記載のとおりである。これらは、いずれも前記吹田市基準を満たすもので、保母数、保育面積とも前記厚生省の基準を上回るものであった。

4  一般的な保育業務の内容の分類と作業姿勢は、原判決添付別紙「保育業務の内容と作業姿勢」及び同別紙1の(1)、(2)記載のとおりである。また、控訴人が勤務していた千里山保育園における日常的な保育業務の概要は、当判決添付別表6「昭和四八年度ないし昭和五二年度における千里山保育園の業務日課の概要」に記載のとおりである。吹田市の公立保育園では、各園において年度末に一年間の保育業務を振り返って反省したうえで、あらかじめ翌年度の保育計画を策定し、これに従って保育に当たっていたものであるが、その保育業務は、保母の配置定数の吹田市基準を前提にしており、内容豊富な、作業密度の濃いものになっている。

5  したがって、保母の欠勤が長引き、人員の補充が間に合わないような場合には、前記厚生省の基準に欠けることがなくても、保育業務の質を落とさない限り、クラスに残って保育に当たる他の保母の業務の負担は増加せざるを得ないものである。ところで、前記説示のとおり、昭和四八年度と昭和五三年一月から三月までの控訴人の担当クラスにおいては、同僚保母の欠勤があり、配置人員はなお厚生省基準を満たしていたものの、速やかな補充は実現していなかったもので、この間、控訴人と他の同僚保母は共に手を抜くことはなく、保育業務の内容を低下させないようにできる限りの努力を払っていた。

七  いったん公務外と認定されたのちにこれが取り消されて公務上と認定された保母との比較(甲第八八号証、乙第一三号証)

1  佐柳憲子は昭和四四年四月に吹田市に保母として採用され、いくつかの保育園勤務を経たのち、昭和四八年四月から東保育園勤務となったが、昭和五〇年二月ころから腰部に痛みを感じるようになり、何回か通院加療を繰り返し、昭和五二年五月一七日上京病院で腰痛症、頸腕症候群と、同月二三日中川整形外科・外科医院で筋々膜性腰痛症、腰椎椎間関節炎、頸肩腕症候群と診断されて、以後休業加療を続けた。被控訴人は公務外の認定をしたが、地方公務員災害補償基金大阪府支部審査会は公務上と判断して原処分を取り消した。

2  佐柳憲子は控訴人よりもやや若く、控訴人の精神薄弱児収容施設の勤務を加えれば、保母としての勤務年数も大差なく、同女の勤務した東保育園と控訴人の勤務した千里山保育園は同規模の保育園で、当番制勤務等の職務体制は似通っている。そして、佐柳憲子は昭和五〇年度三歳児二〇名を保母二名、昭和五一年度に一歳児一二名を保母四名、昭和五二年度に〇歳児九名を保母四名で担当して、同年五月に発症したものであり、控訴人は前記のとおりのクラス担当であり、昭和五三年五月の発症前、昭和五二年度(昭和五三年三月まで)は〇歳児九名を保母四名、昭和五三年度は四歳児三〇名を保母二名(ただし、四月二〇日からはアルバイト一名が増加した。)で担当していたものである。ところで、佐柳憲子の場合、昭和五一年度において乳児グループ担当保母八名のうち二名が同年度を通じて当番免除となって、同女の平日の当番勤務が他年度平均及び他の同僚保母平均を上回り、朝夕各四一回(月平均3.4回)であること、土曜日の平日並み保育につき他の同僚保母あるいは他の同業務担当者との比較においていくぶんか加重的要素があったこと、体調を崩していた時点での年間二三二時間五五分の時間外勤務はいささかの加重的要素であったこと、同僚保母の産休、異動などで年間を通じてクラスを担当していたのが同女一人であったことなどが公務上認定の理由とされている。これに対し、控訴人の昭和五二年度における平日の当番回数は朝五〇回(月平均4.16回)、夕六三回(月平均5.25回)であり(同女の土曜当番勤務の具体的な回数が分からないためこの点の比較はできない。)、時間外勤務は二〇六時間五五分に及ぶうえ、前記のとおり、昭和五三年二月から三月にかけて同僚保母の欠勤が集中しているのであって、発症直前の年度の控訴人の業務の負担は、佐柳憲子よりも少ないものではなかった。

八  保母の健康のために実施された改善策とその効果(甲第三、第一〇、第一三、第一七ないし第二〇、第五〇、第六六、第一二九ないし第一三一号証、検甲第一ないし第三号証の各一、二、第四号証、第五ないし第八号証の各一、二、第九号証の一ないし三、第一〇及び第一一号証の各一、二、第一二、第一三号証、原審検証の結果、原審証人内藤弘子、同野澤正子、当審証人青木有利子、同和田博子、原審及び当審控訴人)

1  施設の改善

吹田市で〇歳児、一歳児の乳児保育をする公立保育園が生まれた最初は昭和四七年四月で、同年九月に新設の千里山保育園が二番目、その次は佐柳憲子の勤務した東保育園であった。そして、千里山保育園は、保育作業の実際から見ると、当判決添付別表7記載のような施設・設備の不備が存在した。そのため、同表影響欄記載のとおり、保育業務上必要以上の精神的、肉体的負担があったところ、その後の新設園ではこれらの不備がないように配慮されており、また、千里山保育園の不備は、同表記載のとおり順次解消されており、他の園についてもこれと歩調を合わせて種々の改善がなされている。

2  職業制頸肩腕障害又は腰痛症による公務災害認定請求職員にかかる勤務上の取扱い等に関する要綱

吹田市は、公務に起因する疾病にかかった者が十分な治療を受けることができるようにとの意図の下に、昭和五三年一二月右要綱を作成した。この要綱では、すべての非災害性の頸肩腕障害、腰痛症、これらと類似する腕、肩、頸及び腰部に発症した疾病について、公務災害認定請求をした職員に対し、特別検診判定区分表B3ないしC2の区分に従って、勤務時間中の通院、当番免除、超過勤務を命じない、通院終了等の後の補助事務への配置、リハビリ勤務を認めるなどの特別の扱いを許すことが定められている。右要綱施行後昭和六〇年九月現在一八名(保母一五名、用務員三名)が適用を受け、途中退職した者及び他の理由で死亡した者を除く一二名のうち、七名が治癒しており(六名は休業せず、一名は約二か月の休業)、控訴人と前記佐柳憲子を含む三名がリハビリ勤務中であり、一名はリハビリ勤務を終了して八時間勤務に復帰し経過をみながら通院している状況である。

3  障害児の観察保育

障害児の入園については、昭和五四年度から、あらかじめ障害児保育審査会で母子面接を行い、二日間の体験入園をして、保育所での保育が望ましいものであるかどうかを検討し、入園後の園に正保母の加配が必要であるか否かを判断するなど十分な準備をしたうえで、障害児を入園させるという制度が採用された。

4  特別検診結果の活用、人員配置の考慮等

吹田市保育園課の中に設けられた健康管理委員会が検診結果の報告を受けて要治療者が治療を怠らないように注意を払う、転勤先に必ず検診結果を連絡する、人事異動の際の参考資料にするなどの方法で、特別検診の結果が次第に活用されるようになった。また、昭和五四年度ころから、クラスの編成にあたって、健康に不安のある者の組み合わせを避け、乳児保育を何年にもわたって連続して行わないような配慮がなされるようになった。欠勤の場合の代替要員も活用しやすくなり、吹田市の基準による欠員状態が何日も続くことはなくなった。

5  乳児保育についての経験の蓄積

昭和四七年に吹田市の公立保育園に乳児保育が導入された当初は、乳児保育の方法については手さぐり状態で、保母の健康状態に対する配慮はなく、母親が家庭で子供を育てるのと同じように子供一人ずつに対して丁寧な、また衛生面に神経質な保育を行っていた。そのため、不必要に多く子供を抱き上げたり、衛生に注意を払い過ぎるなど、保母の負担を増やしていた。ところが、経験の積み重ねにより、保母の負担を軽減しながら、効果の高い保育を維持する必要があるとされ、最近ではベッドやおむつ交換台などは用いず、直接床面で作業を行うようになって抱き上げる動作が少なくなり、無理な歩行訓練や排便の習慣の強要を避けて、成長の程度に応じた自然なしつけが望ましいとされるなど、保育の実践面でも保母の負担が軽減されている。

6  効果

以上のような各種の改善や経験の蓄積により、控訴人及び佐柳憲子の発症後、頸肩腕症候群、胸部出口症候群で昭和五六年一二月一〇日から昭和五七年九月二六日まで休業した者、頸肩腕障害、腰痛症で昭和五六年七月一九日から昭和五七年一一月一日まで休業した者、昭和五六年七月二六日から昭和五八年一月一二日まで休業して昭和五九年八月一九日に退職した者のほかには、吹田市立保育所の保母のなかに重症患者の発生はない。

九  主治医の意見(甲第四、第一六号証、検甲第一四及び第一五号証の各一ないし四、第一六号証の一、二、第一七ないし第一八号証の各一ないし四、乙第七ないし第一〇、第一三号証、当審証人吉田正和)

1  控訴人が昭和四九年四月一九日に吉田整形外科で頸肩腕障害と診断された際、主治医は吉田正和医師であった。控訴人の初診時の愁訴は、前年一一月ころから肩、頸、腕などにこりと痛みを覚えるようになり、特に夕方になると腰、背部や頭に拡がることがあり、寒い日には右手薬指も痛み、最近では全身倦怠感が強いというものであり、医師の所見は、左側の上腕神経叢、斜角筋群、肩胛挙筋、両側の上腕口頭筋、上腕橈骨筋、右側の手根伸筋群、母指内転筋、両側の仙棘筋群、外側縁の腰髄神経枝部、上臀神経部及び腓腹筋に圧痛が著明で、これら諸筋の硬化、抵抗を触知し、握力は右が低下しており、下肢伸展挙上テストは左側が陽性を示すというものであった。同医師は、職業病について臨床医学と産業衛生医学とで見解の分かれるうちの後者の立場に立って、控訴人の右疾病を公務に起因するものであると判断した。レントゲン検査の結果では、肩や頸の筋緊張、痛みなどが原因と考えられる頸椎部の生理的前彎の消失がみられるが変形性脊椎症などの骨の異常は発見されず、その他控訴人の頸肩腕障害の原因となる特定疾病は認められなかったとする。そして、前記説示の千葉医院が診断した多発性神経炎は症状名にすぎないから、頸肩腕障害の診断と矛盾しないとし、津田外科の変形性脊椎症との診断については、昭和五三年五月、同年八月、昭和六一年八月、平成二年九月に上京病院で撮影されたレントゲン写真をも参考にして、年齢相応の変化以外の異常は認められないとして、疑問を呈している。

2  控訴人が昭和五九年五月一九日に上京病院で頸肩腕症候群、背腰痛症と診断された際、主治医は三宅成恒医師であった。初診時、手指、上下肢のしびれ感、夜間に腕がしびれて覚醒すること、頸肩腕痛、腰痛が強く耐えられないこと、上肢をあげるとしびれること、頸部が痛く重く回りにくいなどの症状を訴え、これらの部位の筋に圧痛、硬結が見られた。同医師も産業衛生医学の立場に立ち、控訴人から保育の内容を聞き取り、各種の検査及び診察の結果を総合して、控訴人の右疾病を保育業務に基づく疾病と判断した。右疾病の原因となる既往症はなく、外傷、先天性の奇形、他の炎症性疾患、リュウマチ等の右疾患の原因となる他の疾病は認められないとしている。津田外科の変形性脊椎症という診断について、上京病院の診察では年齢相応の脊椎の変化以外の本件疾病の原因となるような異常は認められず、多発性神経炎、メニエル氏病等の千葉医院及び津田外科での診断は、頸肩腕症候群、背腰痛症という前記診断と矛盾しないとの見解を示している。

3  両医師共に、頸肩腕症候群、背腰痛症は、早期に適切な治療をすれば三か月ほどで完治するが、適切な治療のないまま長期間を経過すると、難治化し、年数から一〇年以上にわたって症状が続く例があるとしている。

4  両医師の右診断及び見解を排斥するに足る的確な反証は存在しない。

一〇  公務上外の判断

1  前記のとおり、保育所の保母の業務について、行政上の認定基準を直接適用することはできないけれども、頸肩腕症候群及び腰痛症の発症原因等につき定説がなく、右基準が現時点で解明された範囲を集約して作成されているところからすると、その内容は、控訴人の従事した保母の業務と本件疾病との間の相当因果関係を判断する際の参考になるものである。そして、業務に伴う有害作用の程度が当該疾病を発症させる原因となるに足りるものである必要があることなど前記説示したところのほか、乙第二、三号証によれば、頸肩腕認定基準は、次のとおりに定めていることが認められる。すなわち、公務上疾病の要件として、その業務に相当期間従事していること、その業務量が同種の他の労働者と比較して加重であるか、業務量に大きな波があることを定めている。さらに、同種の他の職員と比較するとは、当該勤務場所における同性の職員で、作業態様、年齢及び熟練度が同程度の者の平均的な業務量との比較をいうこと、業務量において加重であるとは、右の平均的な業務量のおおむね一〇パーセント以上業務量が増加し、その状態が発症直前に三月程度継続している場合をいうこと、業務量に大きな波がある場合とは、業務量が一定せず、通常の一日の業務量のおおむね二〇パーセント以上業務量が増加した日が一月のうち一〇日程度あることが認められる状態が三月程度継続しているような場合をいうことなど、一応の目安となる具体的な解説が付されている。

2  そこで、まず、保育所保母の業務が頸肩腕症候群及び腰痛症を発生させ得る作業を内容としているか否かについて検討するが、前記のとおり、保母の業務は、様々な種類の作業を含む混合作業であって、その業務態様から直ちに頸肩腕症候群及び腰痛症を発症させる典型的な業務であると認めることはできないけれども、前記認定によれば、原判決添付別紙「保育業務の内容と作業姿勢」及び別紙1の(1)、(2)、当判決添付別表6に記載のとおり、幼児の介護、指導、それらの準備など上腕を頻繁に使用する作業が多いこと、通常の一日の勤務においても、前傾立位姿勢が四四パーセントを占め、このうち腰を九〇度近く曲げて腰に大きな負担をかけるデリック型と言われる姿勢が9.8パーセントを占めている(その総時間は約四四分)ほか、しゃがんだり、中腰の姿勢を取るなど、乳幼児の背の高さに合わせて大人としては不自然な姿勢がかなり多く取られていること、集団の中にいる心身の発達の未熟な乳幼児を保護し介助するもので、勤務中乳幼児と接する時間は絶えず精神的緊張を強いられることなどが認められる。また、前記のとおり、頸肩腕症候群及び腰痛症の発症の原因や仕組みについては医学上定説がなく、各種の実態調査の結果によっても、保母の業務と頸肩腕症候群及び腰痛症との間に疫学的因果関係を認めるには不十分であるけれども、証拠(甲第三七、第七二、第七三、第七七、第九一、第九八、第一四二号証、原審証人西山勝夫)によれば、これらの実態調査に基づいて、保母の頸肩腕部や腰部に疲労が目立つことが報告され、保母に頸肩腕症候群や腰痛症の発症が見られることが明らかにされていること、保育所保母の頸肩腕症候群及び腰痛症の発症には、保育作業の動作、種類、精神的負担、作業の量に加えて、休憩不足、環境不良、責任の重さ及び拘束度の強さ、運動不足が関係し、他の作業条件上の問題、職場上の対人関係、個人の体力、素因のほか、睡眠や余暇の過ごし方など家庭生活の状況ないし家庭環境も影響することがあり、その時々の疲労を増強させる要因によって、発症が促進され、障害が形成される場合があることが認められる。これらの認定事実によれば、一般的に保育所保母の業務が原因で頸肩腕症候群や腰痛症が発症するものとはいえないとしても、保育所保母の業務が頸肩腕部や腰部にかなりの負担を与えることは明らかであり、これに加えて、業務を遂行する過程で、同僚保母の欠勤等によりその仕事を引き受けて作業に切れ目がなくなるなど、上肢を反復して使用し、腰部に負担のかかる姿勢での作業を繰り返し間断なく行わざるを得ない事態が相当期間継続するような場合には、頸肩腕部や腰部に疲労が蓄積し、これが原因となって、ついには頸肩腕症候群や腰痛症に罹患することがあることは否定することができないというべきである。保母が子供を介助し保護する作業は、基本的となる個別の動作を見れば、家庭の主婦が子供の世話をするのと違わないといえなくもないが、保母は他人の子を多数、集団的に世話をする点で量的、精神的に負担が大きく、保母の業務と主婦の育児には無視できない質的な差異があるものというべきである。

3 保母の業務が右のようなものであることのほか、控訴人は吹田市に保母として勤務するようになる以前は健康であり、吹田市の公立保育園と比べて条件の悪い精神薄弱児収容施設において健康を損なうことなく勤務した経歴からみると、控訴人が保育所保母の業務を普通にこなすことができる体力ないしは体質及び精神力の持ち主であったと推認できること、昭和四八年四月から一二月までと昭和五三年二月から五月までの控訴人の業務は、同僚保母の欠勤、転勤、障害児の世話などのため、勤務先保育園の同僚及び吹田市の他の公立保育園の保母と比べてもその業務は極めて加重であり、頸肩腕認定基準が目安とする業務の加重性及び波動性に匹敵する負担があったこと、とりわけ、昭和四八年の業務の加重に対応して同年度後半から肩や腰などに種々の症状が見られるようになり、昭和四九年四月に頸肩腕障害と診断されたのち、昭和四九年度と昭和五〇年度に業務の軽減がないまま控訴人の症状は持続し、昭和五一年度に事実上業務が軽減されるとその夏ころから翌年春ころまではやや健康を回復し、昭和五二年度になって普通の業務負担量に戻ると再び前と同様の症状が現れるようになったが、昭和五三年二月から五月にかけての業務の加重が続くうち、体調を崩していた控訴人にとって過酷なものであった遠足をきっかけとして、頸肩腕症候群、背腰痛症による休業を余儀なくされるなど、控訴人の業務量と症状ないし発症との間に極めて明白な対応関係が存在すること、控訴人が昭和五三年五月に休業する前の年間の業務量は、控訴人よりやや若く保母の経験年数に大差のない、公務外の認定が取り消されて公務上とされた吹田市の公立保育園の保母の業務量とほぼ同じであったこと、特に注目すべきは、施設の改善その他の職業病対策により、最近では吹田市の公立保育園の保母に頸肩腕症候群、腰痛症の重症患者は発生していないこと、加えて、前記主治医の診断及び見解が存在することなど前記認定説示の諸事情を総合して判断すると、控訴人は、遅くとも昭和四九年四月一九日までに、保育所の設備に不備な点があったことも加わり、昭和四八年度の保育業務が加重であったことが原因となって、頸肩腕症候群が発症し、その後、業務量の軽減措置もないままはかばかしい回復を見ないうちに、昭和五三年二月から五月にかけての業務加重が重なって右症状が増悪し、昭和五三年五月一七日から本件疾病による休業を余儀なくされたものというべきである。もっとも、前記認定のとおり控訴人の症状の回復は極めて緩慢であり、右休業から既に相当期間を経過しているのにいまだ完治していないところ、証拠(乙第三、第五号証)によれば、頸肩腕認定基準と腰痛認定基準は、職業性の右各疾病は、適切な治療によれば、三、四か月でその症状が軽快するのが普通であり、その期間を経過しても回復が見られない場合には、他の疾病の存在を疑う必要がある旨を定めている。しかしながら、控訴人の場合には、昭和四九年四月に頸肩腕症候群の発症が確認されたのち適切な治療、業務量軽減等の配慮がなされないまま約四年を経過して症状が悪化し、本件疾病による休業を余儀なくされた経緯があるのであって、適切な治療のないまま長時間を経過すると難治化し一〇年以上にわたって症状が続く例がある旨の前記医師両名の意見に照らせば、認定基準の右の定めは、保育業務の加重が原因で控訴人の発症と休業を招いた旨の右認定を覆すに足りないというべきである。また、控訴人は精神薄弱児収容施設に勤務していた当時何らの症状も発症していないけれども、同施設を退職後千里山保育園に勤務するまで五年余が経過し、両施設の対象児も異なるから、精神薄弱児収容施設と千里山保育園の勤務の状態を設備の状況を含め単純に比較することは困難であるうえ、同一施設に勤務した場合でも業務に起因する病状が発症するまでの期間が一定しているものとはいえないから、精神薄弱児収容施設で病状の発症がなかったことをもって、本件疾病の業務起因性を否定する根拠とすることはできない。そして、控訴人が昭和四七年八月吹田市に保母として採用された当時、二歳と四歳の女児を抱えた母子家庭で、昭和五三年五月の休業までの間、右女児らの養育にある程度の負担があったことは推認できるけれども、前記認定のとおり、保母の業務と主婦の育児に質的な差異があるうえ、両名とも乳児の域を脱していたから、その育児の負担が保母としての業務の負担をしのぎ、保育業務が本件疾病の原因であるとの右認定を左右するほどに重いものであったものとは認め難い。仮に、右女児らの養育による負担が、本件疾病の発症の原因として競合していたとしても、前記認定事実に照らすと、その寄与の割合は格段に少なく、保育業務が相対的に有力な発症原因であるというべきである。そして、右のほか、控訴人に本件疾病が発症する素因あるいは要因が存在することを認めるに足る証拠はないから、控訴人の保育業務と本件疾病との間に相当因果関係が存在すると認めるのが相当である。

一一  まとめ

したがって、控訴人の本件疾病は公務上のものであると認めるべきところ、公務外と認定した被控訴人の本件処分は違法であるから、本件処分の取消しを求める控訴人の本訴請求は認容すべきである。

第四  結論

よって、控訴人の本訴請求を棄却した原判決は不相当であるから、これを取り消し、右請求を認容することとし、訴訟費用の負担につき、民訴法九六条、八九条に従い、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官宮地英雄 裁判宮山﨑末記 裁判官富田守勝)

別表〈省略〉

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